戦前の活動家で、高砂の理昌院にお墓がある古川苞の墓参りと偲ぶ集いが開催された。命日の12月15日に毎年開催されている。古川苞は「わが地方の日本共産党史」で、戦前、党中央が破壊されたあと、「党中央も東京の党組織もついに太平洋戦争が終わるまで再建されなかった。この間、東京市委員長の山本忠平、村上多喜雄、最後の市委員会再建責任者の古川苞、東京モスリンの飯島喜美、地下鉄ストの指導者で細胞長だった津野勇、関東金属労組の活動を経て東部で活躍した関叔子など、東京の党と革命運動の歴史を築いた幾人もの党員や活動家が、天皇制権力の野蛮な弾圧と拷問によって獄死、あるいは病に倒れ、死んでいった。赤旗配達責任者で逮捕と同時に虐殺され、記録に残されていない党員もいる」と記されている。
この「冊子」は30年前に刊行されたが、今は、古川苞の足跡がもっと詳しく把握されるようになっている。高砂に居住し、東京の共産党再建のために、命をかけて活動をしていた姿、特に、この高砂地域のどこをどう歩いていたのか、自らの命と仲間と組織を守り再建するために、どんな思いで活動していたのか、人間の命を軽んじる社会にしないためにも、もっと知らなくてはいけないし、知る努力をし、次世代につないでいくかなくてはいけない。12月15日は、いつもそのことを思い、勉強しなくてはと反省する日でもある。